シモーヌ・ヴェイユ――アウシュビッツの奇跡の生存者、女性の権利のために闘ったその生涯

「フランスが到達し得る最高峰の存在」の死

2017年6月30日、フランスで一人の女性が息を引き取りました。

彼女の名はシモーヌ・ヴェイユ。フランスの政治家です。

 

彼女の死に対して、フランスのマクロン大統領はtwitterで以下のように深い哀悼の意を表しました。

フランスが到達し得る最高峰の存在であるシモーヌ・ヴェイユという模範が、どうか私たち国民を鼓舞してくれますように」

強いナショナリズムと、彼女への深い敬意を感じる表現です。

 

ヴェイユはフランスの右派政党(現在の共和党)に属する人物でした。中道新党のマクロン大統領とは政治的に異なる立場にあったはずなのに、どうしてマクロンはヴェイユのことを「フランスが到達し得る最高峰の存在」とまで呼ぶのでしょうか。

いや、彼だけではありません。左派や急進左派の政治家さえも、みんな彼女への深い敬意を示しています。

 

彼女の絶大な人気は、政治家の間だけにとどまりません。

フランスの市民が投票で選ぶ、最も愛されている人物ランキングの昨年の結果では、1位の超有名俳優に次いで、なんとヴェイユは2位にノミネートされています。ほかのフランスの政治家と比べると、圧倒的な人気ですね。

 

日本では同姓同名の別の哲学者の方のシモーヌ・ヴェイユがよく知られていますが、ぜひこの機会に、フランスの人々に深く愛されたこの女性政治家について紹介したいと思います。

誇り高い彼女の人生は、苦難闘いの連続でした。(一番下に動画もあります)

アウシュビッツ強制収容所からの奇跡的な生還

シモーヌ・ヴェイユは、1927年、フランス・ニースにて、ユダヤ人の一家のもとに生まれた。南フランスの太陽と地中海に彩られたこの街で、彼女は比較的裕福な家族とともに、幼少期をすごしました。

しかし、そのような生活に、やがて破滅的な終焉が訪れます。

1940年に、隣国ドイツがフランスに侵攻し、フランスはナチスによって占領されてしまいました。

ご存じのとおりナチスは、ヨーロッパ各国に侵攻すると同時に各地でユダヤ人を拉致し、強制収容所に送還して大量虐殺をおこなっていました。

(集められ、殺害されたのは、ユダヤ人だけでなく、ロマや、特定の宗教を信じる者や、同性愛者など、さまざまなマイノリティにおよびます。また、実はナチスが来る前からフランスでは反ユダヤ主義が浸透しており、ユダヤ人の摘発には多くのフランス人の市民も加担しました)

 

ヴェイユの家族はユダヤ人であり、彼女も含めた家族みんなが、強制収容所送りの対象となりました。

当時、中学生だったヴェイユは、偽造の身分証明を持ち歩き、何とか逃れようとします。しかしやがて家族全員ゲシュタポに逮捕され、ポーランドに位置する、かの有名なアウシュビッツ強制収容所(ビルケナウ)に移送されました。彼女が移送されたのは16歳の時です。

ヴェイユの父、母、兄弟は、強制収容所で殺害されました。

 

しかし彼女は、その美しさに見惚れた、あるポーランド人女性の助けもあり、終戦を迎える1945年まで生き延びることで、奇跡的にフランスに生還します。

 

政治家への転身

両親と兄弟というあまりにも大きすぎる存在を失ったヴェイユでしたが、彼女は決してそこで立ち止まることはありませんでした。

心に大きな傷を負ってフランスに生還してから、なんとわずか6カ月後に、彼女は名門大学に入学し、法学を学び始めます。

 

そこで出会った男性と結婚し、3人の子どもを生み育てながら、しかしまた彼女は、夫を説得して、司法官として華々しいキャリアをスタートさせます。

 

ヴェイユは、フランスとアルジェリアの不潔な刑務所の環境改善に尽力しながら、政界にも接近しはじめます。

やがて彼女の優秀さに気づいた当時のシラク首相やデスタン大統領などの政治家は、彼女を保健省の大臣に抜擢します。

 

彼女は、すでに解禁されていた避妊用の経口薬(ピル)のより一層の普及に尽力した後、彼女の生涯で最も知られる大きな功績となる、困難な闘いに身を投じることになります。

 

ヴェイユ法――人工妊娠中絶の合法化に向けて

それは、フランス社会を揺るがした、人工妊娠中絶の合法化に関する国民的な議論です。

 

人工妊娠中絶の合法化運動は、すでにーヴォワールなどのフェミニストたちによって開始されていましたが、カトリックの伝統の影響も残るフランス社会においては、その反発はすさまじいものでした。

人工妊娠中絶を望むフランスの女性の一部は、フランスよりもすでに中絶が一般化していたイギリスやオランダなどにはるばる出向いていたとされています。もちろんそのようなことができたのは、よっぽど金持ちでしかも周りの理解を得られた者だけでしょう。

 

1971年には、有名雑誌の紙面上で、ボーヴォワールや、人気女優のドヌーヴらを含んだ343人の女性が、人工妊娠中絶を行った過去を公表し、合法化を求める共同声明を出すという、大変センセーショナルな(そして最高にクールな)手法によって、この合法化運動は大衆の知るところとなりました。この声明を発表した女性たちは、当時、「343人のアバズレ(ヤリマン)」と呼ばれました。

 

さらにこの運動を拡大させることになったのが、一年後に発生した、未成年の少女に関する悲劇です。

16歳の少女マリ・クレールが知り合いの少年によって強姦されて妊娠し、堕胎させるために医者に相談したところ、医者はその料金として、彼女の父親の三か月分の給与を要求しました。金銭的余裕のなかった家族は、その結果、医療関係者ではない知り合いのとある女性に妊娠中絶を依頼し、そして実行されました。

強姦犯人の少年は、別の窃盗事件で逮捕された際に、この中絶のことを警察に話したため、警察はマリ・クレールや、その家族、中絶の施術をした女性などを逮捕しました。

 

こうした悲劇が繰り返される中で、合法化運動の拡大もあり、ついにヴェイユはその合法化のために本格的に議会を動かそうと試み始めます。

 

しかし合法化を実現させようとするヴェイユに対しては、路上や、自宅にまで数々のひどい嫌がらせが多発しました。

例えば、反対する人々に自宅の敷地内に侵入され、ナチスのシンボルの鍵十字の落書きが大量に書かれました。

また、ヴェイユは対立する政治家から、人工妊娠中絶は子どもの殺戮であり、ナチスと同様の思想だ、という暴言を浴びせられました。

家族をナチスによって惨殺され、強制収容所を生き抜いてきた彼女にとって、これらの言葉や行為は、どれだけその心を傷つけるものだったでしょうか。

 

そして1974年11月26日、国民議会において彼女は、歴史に残る大演説を行いました。

当時の国民議会は議員の98%が男性であり、政界で女性の権利のために闘うことは困難を極めました。

しかしながらヴェイユは、情熱をもって、女性の身体と権利の保護という観点から、人工妊娠中絶の重要性を語り、今なお語り継がれるその歴史的な演説は、多くの議員の心をとらえました。

長い激論の後、人工妊娠中絶の合法化は賛成多数で可決されました。現在でもなおフランスでは、この合法化に関する法律は「ヴェイユ法」と呼ばれています。

 

ヨーロッパの統合――歴史を繰り返さないために

ヴェイユの活躍は、フランスだけにとどまりません。

1979年に行われた直接選挙による史上初のヨーロッパ議会選挙を勝ち抜いたヴェイユは、ヨーロッパ議会の初代議長に選ばれ、文字通りヨーロッパ統合の象徴となります。

 

ヴェイユがヨーロッパ統合にこだわり続けた理由は、ヨーロッパで多くの命を奪った二度の大戦、そしてナチスによる恐ろしい悲劇を二度と繰り返さないように、という彼女の思いでした。

彼女は二度の大戦の責任はヨーロッパ全体にあると考えており、ヨーロッパが平和的に一つになることこそが、真に悲劇の歴史に向かい合うことであると考えました。

ナチス・ドイツに大切な家族の命を奪われたヴェイユは、決して隣国ドイツを恨むことはなく、むしろ、そのような背景があるからこそ、誰よりも熱心に隣国のドイツとの深い関係の構築を目指しました。

 

ヨーロッパ議会の議長に選出された後も、複雑な議論をまとめ、ヨーロッパ各国の和解と融和を推し進めていきました。

やがて彼女はその大いなる功績を称えられ、ヨーロッパ各国からさまざまな勲章を授与されます。彼女はその後もごく近年まで、政治にかかわり続けました。

 

そして2017年6月30日、この闘い続けた偉大な女性は、自宅で静かに息を引き取りました。89歳でした。

おわりに

以上、この記事ではヴェイユの生涯を簡単に紹介しました。

 

彼女は面倒見がよく、熱意溢れる性格で、多くの者から愛される存在でした。

ナチスによる強制収容所での送還と家族の虐殺というあまりにも大きな悲劇を乗り越え、そして社会に立ちはだかる女性差別と不正義に対しても決して妥協しなかった彼女は、まさにフランス史に残る偉大な女性です。

 

現代フランスの多くの政治家や市民から、彼女がどうしてこんなに愛されているのか、理解してもらえたでしょうか。

彼女の名前は、今後もフランスの人々の記憶の中に、そして、人工妊娠中絶を合法化した「ヴェイユ法」の名においても、残り続けるでしょう。

 

アウシュビッツの悲劇を二度と繰り返さないという誓い、そして女性の権利のための闘いから、私たちが学ぶべきことは何なのか、一緒に考えていきたいですね。

 

私はまだ、その光景に、臭気に、叫び声に、虐待に、風に、そして死体処理場からのぼる煙でかすんだ空に、取り憑かれている」――シモーヌ・ヴェイユ 2005年